2014年10月27日月曜日

夏時間の終了

    
      多くの国で夏時間制を採用していると思うが、フィンランドでも、3月から10月は1時間進めた夏時間で暮らしている。昨日日曜日の朝それが終了、いつものように朝起きると、ンン?まだ5時じゃないかと。でも、日曜日一日中なんとなく、いつもより疲れたような。1時間といえど、体のバイオリズムを慣らすには1日かかってしまったようだ。しかし今朝、バス停でバスを待ちながら周囲がもう明るいのにうれしくなってしまった。1年住んでの私の感想であるが、フィンランドでの長い寒い冬、私にとって一番こたえたのは、朝、出かけがまだ暗いということだ。一日の始まりを薄暗い中で迎えるのは、モチベーションを下げると思う。毎朝、バス停にいつもの時間に見慣れた顔達が、北風を防ぐマフラーに包まれて集まってくる。皆、一応に無口でたたずむ姿が、なんというか北欧の冬のイメージそのままに、私の心をどんどん重くしていったものだった。
   


    フィンランド人が日本人に似ているといわれるのは、無口で、誠実なところだそうだ。確かに、おしゃべりな国民ではない。しかしながら、けっこう議論好きではある。特に女性は、歴史的にも社会進出を奨励されてきたからか、政治、教育、社会福祉、医療健康保健で圧倒的に数も多いし、存在感が強い。医者の数は女性数が男性数より多い。社会的な地位も高く、その影響もあるのか、押しも強いように感ずる。それに対して、男性で職業的に野心が少ない場合、電気工事屋にしろ、左官にしろ、収入はある程度保証されているし、健康保険、社会保険など公的な補助もしっかりしているので、大学にいかずに、職業訓練学校にいき、就職することも多い。社会的に見下されということもアメリカに較べ、少ないようだ。そのため、午後早く、4時に会社や職場から帰って、バーで友人とビールを一杯飲みながら談笑するという場面をよく見かける。夕暮れが早くなるこの頃、ますますそういう男性(ユンティーというらしい)が増え、それがフィンランドの抱えるアルコール中毒者数の多さに繋がるのかも。

2014年10月22日水曜日

フィンランド探訪 ヘルシンキ

ヘルシンキの1日
  1年もフィンランドに住んでいながら、これが初めてのヘルシンキ訪問なんて信じがたい話ではある。だが、観光を目的として来たのではないという気負いがあったし、それにすぐにコウクニエミ高齢者居住地区でのボランティア活動を始め、大学院の講義もヘルスサイエンスでとり始めてしまい、あっという間に夏を迎えてしまったというのが、実状なのだ。
  フィンランドの首都ヘルシンキ市周辺、ヴァンタ地域を含めると100万人都市。ここフィンランドでも南部の首都地域への人口の集中化進んでいる。職業のための人口集中が主な要因のようだ。反対に北部を中心に過疎化が進行しているため、地方自治体が社会、保健政策を実施する形態のこの国では、地域格差が非常に明確に存在し、議論の主点になることが多い。
                                           ヘルシンキは、フィンランド第2の都市である、私の住むタンペレと比較にならないほど大都市のイメージが強いのが、印象だった。街の建物、街路が昔に訪れたことのあるロシアやウクライナのそれに似た風情のタンペレと全く違う。もっと、歴史とモダン性を感じる。スウェーデンやエストニアへの大きな客船や貨物船がたくさん浮かぶ大きな港に面していることもあるのだろうが。街の中心は、車を始め、路面電車、バスが忙しく行き交い、地下鉄も発達している。

   まず、観光の名所の港のマーケットは残念ながら、季節とあいにくの小雨でしょんぼりとしたもので、ぜったい今度の夏にはこなければと、心に念を押したものである。市内の中央には老舗のデパートメント、ストックマン、残念ながらアメリカ企業に買収されてしまったが、名高いホテルKAMP(一階Yumeという和食レストランがあったが?!)、マリメッコMarimekko本店、フィンランドの代表的なチョコレート会社Fazer (Geishaというチョコレートが主力の一つ?!)の大きな出店、ムーミン店など火曜日だというのに、多くの人々でにぎわい、騒々しかった。






      トナカイのミートボール???  今度絶対にトライしてみなければ!



        これがなんなのか、周りの人にきいても誰も知らない!



  観光客らしき人々も多い。フィンランドの国自体がここ近年、観光に力を入れていると聞くが。住むところとしてのヘルシンキは、ロスアンジェルスからきた私にはそれほど魅力的には見えないが、ちょうど、センチュリーシティーで時々、お茶したり、ウインドウショッピングしたり、都会の雰囲気を味わい、気分転換したように、タンペレから2時間の距離をたまに往復しようとわくわくしている私である。


2014年10月20日月曜日

人はどのように死んでいくか

   先週はアルツハイマー協会でメモリーナースとのインタビュー、ヘルシンキでの高齢者福祉政策についての専門委員会に同席したりと動き回っていた。同時に春から訪問していたコウクニエミ高齢者ホームのレジデンスが、終末を迎えるということにも遭遇し、精神的にも動揺した1週間でもあった。だが、その最期をずっと見させてもらい、フィンランドの高齢者終末期ケアの実状の一環を体験できたのは、とても勉強になったように思う。
  96才のレジデントは 、連れ合いが亡くなってから14年近く、自宅で暮らしていた。認知症が進行して、長年の糖尿病のために完全失明してからも、独居はタンペレ市のホームケアサービスの介助で続いていた。ヘルシンキに住む娘が、ほとんど週末ごとに列車で往復して、家族介助もしていたが、その娘が、自分自身も疲労によるうつ病の治療が始まる段階にいたり、ヘルシンキ職業大学英語教授の職を早期退職し、ヘルシンキの自宅を売却、母のアパートメントの上の階に転居していた。市の家族介護手当というシステムがあるのだが、支給額の少なさ、自分のペンションへの影響を考えると、自己負担が妥当と判断して、母親の介護にあたっていたという。しかし、母親の身体機能の低下が進行して、キッチンで倒れるなどを繰り返しなどが続くようになったので、市のソーシャルワーカーとも相談、高齢者ホームへの入居を希望していた。スペースが限られているので、その日がいつになるかは、その当時、見当もつかないと言われていたそうだ。だが、1年7ヶ月前、ある日突然電話がきて、空きがでたので、希望なら3日以内に入居しなさいとのこと。その3日間は自分の生涯でも、もっとも忙しかった3日間でもあったと述懐する娘だが、指定された必需品を準備してタクシーで高齢者ホームに母を運び入れた。それから、ほとんど毎日昼食時間を中心に、母の食事介護も含めて、高齢者ホームに通い続けていたという。盲目の母なので、食事を誰かが介助しなければならず、その高齢者ホームの住居人は15人の半分が寝たきりで、介護が必要であるが、スタッフが充分でないと感じたからだという。
 フィンランドの高齢者ホームは、レジデンスがペンションから個室、食事、介護サービスを負担する。この母親の場合、彼女の月額ペンションの85%にあたる2000ユーロあまりだという。96才という高齢もあり、また、盲目になってしまったが、体調は落ち着いている状態であったので、特に投薬はなく、この1年を過ごしていたようだ。夏の終わりに、尿道の感染症から発熱が起き、抗生物質治療が始まったあたりから、食欲が落ち、呼吸が断続的に途切れる症状が始まった。その時期はいつもの流動食さえ、受け付けない日々で、牛乳も大好きだったチョコレートも食べられなかった。しかし、抗生物質投与の効果がみられ、改善がみられ、流動食を残さず食べられるような日々が2,3週間続いていた。私も、ほとんど毎日のように、顔を眺める程度の訪問を続けていたのだが。
  先週、水曜日の朝に娘のところに看護師から電話がきて、最期を迎える時期がきたからすぐ来るようにという。看護師は、娘に病院の救急室にいくか、このままこの個室で過ごすかと尋ねたので、即座にこのままで、看取りたいと申し出る。その日から、数時間置きにモルヒネの投与が始まり、また同時に2,3時間おきに体位を右側向きに、左側向きに、そして仰向けにとチェンジした。誤嚥性肺炎を恐れて、水も飲ませられず、唇を湿ったコットンで濡らし、スタッフが口内清掃をするだけ。結局、それだけで、金曜日の夜、息を引き取るまでほとんど丸3日間、自分用のベッドを隣に運び込んだ娘に看取られて、96才の人生を終焉したのだった。
 その3日間には、孫が家族を連れて最期のあいさつにきたりもしたが、全体的に静かなものだった。勤務シフトの入れ替わりにスタッフが様子を見にきたり、また事情を知った他のレジデンスがお見舞いにきたぐらいである。たまたま、ホームにきた所属する教会の神父も最期の別れにきたのは幸いだったと、娘が言っていた。
 臨終のあとは、すぐに部屋を空けなければならない規則で、娘は個人の持ち物をまとめ、自宅に帰り、母親はコウクニエミの霊安室に移されている。今、娘は葬式の準備に忙しい。

         
          (夏前の母親と娘、盲目なのでいつもラジオを聞いていた)
  最期に救急救命室に運ばれるという選択もあったかもしれないが、フィンランドでは、自然な安らかな死をまず一番に人々は望んでいるように感じる。ユーコラ、インピバラでも何人かの死に遭遇したが、基本的に最期は医療行為をあてにするというよりは、いかにやすらかにということが優先されていたようにみえる。